第二章
  ジェイムズ経験論の中心思想

第五節 ジェイムズの実在観


 さてこれまでの論述の中で実在ないしは実在性realityなる言葉でもってジェイムズの思想の特徴が説明されているケースが実に多いのにわれわれは気づくであろう。それによってもあきらかなようにジェイムズの思想においては実在ないしは実在性(ないしは実在的)なる言葉は実に重要な部分を占め、且つ重要な役割をはたしているといわれなけばならない。そこでわれわれは本節においてこの言葉について若干の吟味を行なおう。
 ジェイムズにとって実在とは「より恒常的で、興味深く、実際的であるが故に」
(1)事物の本質的構成物とみなされる可感的性質である。可感的性質であるといわれる以上は、実在は可感的経験的でなければならない。いいかえれば、われわれが事物を実在的であるというためには、その事物についての経験がなければならないのである。それ故実在とはわれわれの最も身近にある可感的対象であり、又われわれ自身の感じそのものでもある。その意味では実在とはわれわれの直接経験の中にみられるものであり、それが外的存在なのかそれとも精神的存在なのかが判断される以前にあるもの、ないしはそれらのいずれかに断定されるべき性格をはじめからもっていない感じそのものである。かかるジェイムズの考えは他の実在感と比べかなり特異である点をまずわれわれは考慮しなければならない。それはいかなる彼の考えに根ざしているのか。
 ジェイムズによれば、ただ単にわれわれに対象としてみえるという事実だけでは実在を構成するに十分ではない。対象はみえるばかりではなく、われわれに興味深く且つ重要にみえなければならない。これが最も身近にある対象の意味である。そしてこの時感覚は単に受動的にただよっているのではない。その時それはわれわれの関心を刺激し、ゆり動かす積極性でもって、なんらかの実践的活動へと促しているのでなければならない。そこから実在はわれわれの情念的活動への関係を意味していると結論づけられるのである。そのことは逆にわれわれの関心を刺激し且つそれをゆり動かすものは何でも実在的であるというテーゼをうみだすだろう。
 このような対象は、他の観点からは、常にわれわれによって注意がむけられている対象であるといわれねばならない。従って可感的性質の恒常性とは、具体的には、外的存在の不易の状態を意味するのではなく、対象に対するわれわれの注意の一状態を意味するにすぎない。かかる見地から実在は次のようにもいわれうるだろう。即ちどのような対象であろうとも、それが注意をむけられている間は、それ自身の様式に従って実在的である、と。
 ジェイムズの言葉でいえば「実在は注意とともに経過する」
(2)のである。この「注意attention」なる観念はジェイムズにとって重要である。なぜならば注意される限りにおける経験がわれわれに属すると考えられる経験となりうるからである。もし逆にわれわれによって注意されない経験的対象があるとするならば、それはその限りにおいて実在的ではない、対象に即していうならばかかる対象は単に存在する対象であり、又単に存在するが故にいかなる人間によっても恒常的且つ連続的に注意をむけられない非実在的対象である。かかる対象はいかなる完全さないしは体系的壮大さをもっていようとも幽霊のようなものである。これに反し、極端な場合、われわれのみる夢の世界はわれわれが眠っている間では実在の世界である。少なくともジェイムズの場合はこの命題は正しいとされている。なぜならばその時注意は可感的世界から続いているからであり、その夢の世界は単に存在するばかりではなくわれわれのある種の注意とともに生き生きと動いているからである。
 以上の点を整理するならば、次の二点にまとめられるのではないだろうか。その第一、われわれに実在を感じさせるものはわれわれの生そのものと親しいintimate関係をもち、且つそれと連続的な関係をもたねばならない。その第二、われわれがその実在について疑いえないと判断する時、そこにわれわれの生の息吹が注意となり関心となって強烈にさかまいている。それではかかる実在はなぜに実在として存在しうるのか。
 ジェイムズの考え方にたてば、実在を実在たらしめる根拠は外から与えられ、保証されるのではなく、内から実在の感じを強固にするところの心的機能そのものに求められなければならない。さてこの考え方が信念 belief という観念を導出する。ジェイムズは実在を認識する心的状態ないしは心的機能を信念と考える。ジェイムズにとって信念とは「最も高い可能的確実性と確信を含んでいるあらゆる程度の確証」
(3)である。しかもこの信念は決してあらゆる種類の感じを強める外的性質、ないしはわれわれの感じの上にたってみおろしている知的存在ではなくして、その内的本性においては他のなによりも情念的な一種の感じなのである。
 ジェイムズはなぜに実在たらしめる根拠を外に求めなかったのか。それは基本的には外にあると考えられるものの内実がジェイムズの意味する経験的事実からはなれた象徴でしかないからである。さらに、ジェイムズにいわせれば、いわゆる実在の客観的証拠なるものはわれわれの感情に何の影響も与えない主知主義の捏造物であるからである。もし客観的証拠があると仮定されても、それはその効果においては主観的証拠としてしか機能しえないのである。いずれにしても証拠とは所詮われわれの同意を強いようとする態度から発しているのであって、われわれはそれを取得したと思いいたることによって、われわれの認識になんらかのやすらぎが与えられるにすぎないのである。
 従ってわれわれに最終的にやすらぎを与えるのは知性ではなく、感情でなければならないのである。そしてそれが情念として作用するときに、最も実在的な様相をわれわれにともなわせるのである。そしてこの情念が意志と結びつき信念の形に転じた時、確実性をえるといわれるのである。その際心的状態においてはやすらぎをともなった行為への自信が明確な形でたちあらわれ、われわれの行為の確かさを保証する内的運動が充満しているのである。
 実在とは実はそういった姿にある一つの状況をさし示しているのである。且つそれはわれわれの信念なくしては単なる存在の事実を示すにとどまらざるをえない。あるいは逆に次のようにもいわれよう。われわれ自身の実在、即ちわれわれ自身の生の感覚と一体となったものはわれわれの信念にとって究極的なものの究極である、と。ここに、カント流の表現を使えば、実在とは信念の存在根拠であり、信念は実在の認識根拠である、ということが結論づけられよう。
 ジェイムズのこのような信念に基づく実在感はある種の倫理的態度を形成するのではないか。それはあらゆる事物に対する疑惑的及び詮索的態度を拒否し、意志の選択的行為を優先させるという生き方を支持している。これが変則的に倫理的態度であるのは、倫理的意識の中心にある価値ある諸目的の想定を否定しないまでも、その目的の一つを選ぶに際し、「役にたつか損になるかを冷静に確かめるまでは行為についてきめない」
(4)でいるよりも、証拠がなくとも、とにかくなんらかの態度決定をする、というあり方が重視されているからである。そこではなにが価値ある目的であるかが考えられているのではなく、行為によって実在たらしめられるような諸目的の一つが価値あるものとされる、という如くに考えられているのである。その意味では不信 disbelief も実在を十分に認識しうるといわれるのである。この考え方はジェイムズの実在観を理解する上に重要な布石となっている。即ちジェイムズにとっては実在とは、たとえ不信に基づいていようとも、われわれをしてなんらかの実践的活動への領域に踏みこませている限りにおいて認められているのである。
 ここでわれわれはもう少しジェイムズの実在観をほりさげてみよう。「われわれの個人的運命と関連をもつ」
(5)程度に応じて、実在自体の確かさの程度も又きめられてくる、というのがジェイムズのもっとも主張したいテーゼであるようだ。それをあきらかにしていると考えられる。ジェイムズによって書きしるされた次の三種類の選択状況についての説明がある。即ちその第一は、選択が生きているかそれとも死んでいるか living or dead であり、第二は、それが強いられているかそれとも回避可能であるか forced oe avoidable であり、第三は、それが重要であるかそれともつまらない important or trivial かである。(一)
 そしてジェイムズによれば、生きている、強いられた、重要な選択が真正の選択であり、そのもとにおいては最も強烈な形で信念にゆさぶりかけ、信念に息吹を与える実在の世界があらわれてくるのである。逆にわれわれの信念に訴えかけるものが、死んでいる、回避可能な、つまらないものである場合、われわれには実在の世界というよりは、ひからびた、面白味のない、そしてそこで人生を生きるに値しない世界しか与えられないのである。
 このように実在の問題がわれわれの個人的運命に対する注意、関心のそれに還元されると、われわれの具体的生活にとってどれだけ効用性があるかによってすべてがきめられてくるのは当然であろう。それに従えば実在にも段階があり、程度があり、もし実在をなりたたしめている状況が十分でないならば実在はたちどころに非実在とみなされる運命にあるのである。ジェイムズによれば「実在的」という言葉それ自体は要するに「一つの包暈halo」でもある。
 なるほどわれわれがジェイムズの論理を整理すれば、実在とそうでないものが次のグループに区分される。第一のグループは「実在─より恒常的で、興味深く、実際的な可感的性質─生きている、強いられた、重要な選択」であり、第二のグループは「現象─より動揺せる、偶然的、非本質的な可感的性質─死んでいる、回避可能な、つまらない選択」である。しかしながらそこでは二つに区分されていることは重要ではない。それはあくまでも一つのめやすにすぎないのであり、従ってわれわれの関心と状況がかわる限り、実在はただちに非実在に、又その逆に、変化しうるものとして考えられねばならない。ジェイムズにとっては実在と非実在との区別は絶対的でなく、意識ないしはその意識が連続的であるように、それらは包暈をもって存在しているのである。
 ここで実在を実在の感じとして考える「知覚の哲学」に前述の問題を関連させてみよう。すると次の命題がえられる。実在の感じの強弱が一方を実在として感じさせ、他方を現象として感じさせ、そしてその感じがもはやわれわれのもとから離れるや、実在の世界は認められない、なる命題。
 だが注意されねばならないのはこの実在の感じのない世界がわれわれの世界から永遠に追放されてしまうと考えるのは早計である点である。なぜならばこのような世界とは、たまたまそれについての明確な観念を知覚の中につくりえないだけの世界なのであり、そのことをもってそれがわれわれの可感的世界とは無関係に且つ永遠に遮断された状態にあるとはいいえないからである。
 伝統的経験論者は感じを連続的なものを考えつつも、他方では感じを明確な知覚観念としてあつかわざるをえなかった。知覚観念はそれ自体をとりだせば非連続的なものである。それ故にはっきりと知覚された観念を純粋な実在とみる悪しき習慣が知覚の哲学にも生じ、彼らは合理論者とみまちがわれるばかりの考え方、即ち実在は実在、非実在は非実在として凍結してしまう考え方に組している。それに反し、感じの連続性を唯一の経験的事実とみるジェイムズにあっては知覚観念が明確であるかどうかはその実在性をきめるに必要な条件ではなく、むしろ非知覚的経験も、感じの連続性の結果であるとして実在化される余地を残す方が、生活の効用的価値から、必要であったのである。
 そしてわれわれはそのことからジェイムズが「信ずる意志」なる概念を持ちだしてくることによって、この世界が(はっきりと知覚されたものであるかどうかの如何を問わず)現実に経験せられうるものでなければならず、その限りにおいて実在的であるという風にみるように要求していると理解せねばならないだろう。
 それ故実在の世界と非実在の世界は感じの連続性を信奉する限りにおいては連なっていなければならない。感じがある部分において覚知されない事態におちいった時、次に生じる感じが以前のとは異なったものであると考えられやすいということは感じの存在のある仕方を伝えているのであって、感じが分断されているという事態を証明しているのではない。だがヒュ-ムのように「分離しうるものは区別しうるものであり……区別しうるものは分離しうるものである」
(二)と考え、明確な知覚観念をのみ学的対象とする場合、われわれはかかる明確な知覚観念(従ってその観念の対象とされている存在も)のみを実在としてしまうだろう。そしてかかる実在は、この明確な原子論的観念に支えられて変化のない実体になってしまうのである。その意味ではこの実在は、なるほど知覚を介してとらえられているが、われわれの信念の存在根拠にもならないよそよそしさを呈することになるのである。
 この実在に対する批判によって、われわれはジェイムズの実在がわれわれにとって内在的なものであり、且つそれはわれわれの直接的、可感的、情念的経験により、その存在が可能になる経験的範疇になることを知るであろう。ジェイムズの意味する経験は決して受動的ではない。経験が唯一の実在であるとジェイムズがいう時、それはわれわれの以前の経験から存在している実在についていっているのではなく、単なる事実に過ぎない対象を経験によって実在化するということ、いいかえれば一つの実在をもたらすように意志を働かせることが実在としての経験の内容であるということ、をいっているのである。
 かかる対処の仕方は、ジェイムズ自身もいう如く、主知主義的で、プラグマティックな方法である。しかしながら、その方法の採用によって人間の意志の働きの可能性が信じられているという意味においてもこの考え方は新しい哲学的認識をわれわれに提供しているといわれなければならず、又そこにジェイムズのねらいがあったのである。われわれはここにジェイムズが実在を可感的性質として考え、それに徹しきろうとする根拠をみねばならない。
 実在が可感的性質以外のなにかから規定されうるものとして考えられた場合、知性の作用の当然の結果としてそれの客観的明証性が求められてくる。だがそれは、純粋な洞察や論理のいかに理想的な働きによろうとも、生の流動的本質と相反するものであり、従ってそこでは生の証しでもある情念的本性、即ち信ずる意志の働きとしての信念の存在が認められていなく、それ故ジェイムズによって批判されるのである。ジェイムズによれば、生の流動的性質を理解するとは、事物の何であるかについて完璧なまでに論証することとは何らかかわりはないばかりか、むしろそれを凌駕する行動のエネルギーを認めることである。ここに実在側の可感的性質の中にあるとジェイムズが主張するのは、生の発露とその営みが人間存在にとっても第一義的なものであると考えられねばならず、又実在を直接的にえるといういうことが人間の創造的活動につながり、われわれの生そのものを価値あらしめると考えなければならないからであると判明されるのである。
 実在の問題がかかる観点から考察されるのは、ジェイムズにとっての究極の課題が「人生は生き甲斐があるか」の厳粛なる追求にあったからであると考えられる。それは世界を解釈するよりも人生を自らきりひらいていこうとするジェイムズの哲学的気質のあらわれでもある。たしかにそこにおいては信念と実在の問題を個人的ないしは主観的な好みの問題の次元にひき下げる、ジェイムズらしい独断的な人生観が頭を強くもたげているきらいがないでもない。
 しかし彼にとっては、自らを静観主義にまかせていつまでたっても人間の行動の具体的結果をえられずにいるよりも、可感的対象に身をぶつけて事にあたっていく方が人間としてははるかに生きるに値する態度であったのである。このあまりにも自信にみちた個人主義的な考え方をとるジェイムズの人生観は、批判されるべき点は多々あるとはいえ、彼なりの誠実なビジョンに基づくヒューマニズムにうらうちされているだけにやっかいな問題であり、それ故にこそわれわれ自身の哲学を形成する上に一考に値する、とみなされねばならない。それだけ庭はこのジェイムズの実在についての考えがわれわれの心を少しなりとも刺激する「実際的結果」をもっていると考えることができるだろう。

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